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スタッフからのお知らせK会本郷教室

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━【「言語学をのぞいてみよう その33」(K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━

2023年4月13日 更新

━【「言語学をのぞいてみよう その33」(K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━
★このコラムでは、東京大学大学院にて言語学を研究している筆者(K会の英語科講師)が、英語・言語学・外国語学習・比較文化などの話題をお伝えしていきます。★


比喩としての「ひとつの言語」

 日本語なんてものはないし、英語なんてものもない。言語なんていうものは存在しないのだ。そう言われたら驚くでしょうか。しかし、ここで「もの」という言葉を「物体」という意味で使っているのであれば、この発言に問題はなさそうです。日本語が、例えばコップや机や東京タワーといった物体が存在するのと同じような仕方で存在するわけではないというのは明らかでしょう。言語は物体ではない。このことは、当然のことのように思われます。

 一方で、私たちが言語について考えるとき、言語について語るときに、言語を物体のような何かに見立てるということはごく普通に行われています。「言語を物体のような何かに見立てる」とはどういうことか。これには、少なくとも二つの側面があります。

 ひとつは、言語をある場所に存在するものに見立てることです。例えば、「グーグ・イミディル語ってどこの言語ですか?」と聞くときには、グーグ・イミディル語という言語が空間のどこかに存在するものとして語られています。空間のどこかに存在するということ、堅い言い方をすれば空間的な位置を持つことは、物体を物体たらしめる重要な特徴のひとつです。しかし、言語は、少なくともコップや机や東京タワーと同じような仕方で空間的な位置を持ってはいません。例えば「あ、ここにコップがあった!」ということはありますが、「あ、ここにチェコ語があった!」ということはありません。また、言語は脳の中に位置を持つわけでもありません。もちろん、脳には言語を使うことに深く関わる部分と、それほどでもない部分の差はあります。しかしこのことは、言語が脳の中に物体のような仕方で存在することを意味しません。物体として存在するものであれば脳から摘出することもできるかもしれませんが、脳から言語を、例えばスペイン語の部分を摘出するというのは不可能な話です。一方で私たちは、言語を空間的な位置を占めるようなものとして考え、語るということをします。このとき私たちは、言語を物体のような何かに見立てているということです。

 そしてもうひとつは、言語を明確な輪郭を持ったひとまとまりのものに見立てることです。物体、例えばコップは、空間の中にぼんやりと広がっているものではなく、はっきりとした輪郭を持ち、まとまりを持っています。コップなのかコップでないのか判然としない部分とか、ある程度まではコップだけどややコップではない部分というのはありません。言語も、コップのようにはっきりとした輪郭を持つものとして捉えられることがあります。日本語が明確な輪郭を持ったもの、つまり、日本語と日本語でないものの境界が明確であるようなものとして捉えられるということです。例えば「日本語以外の言語では記入しないでください」という語り方は、日本語か日本語でないかは明確に区別することができるということを前提にしています。しかし、本当に日本語と日本語でないものの境界は明確と言えるでしょうか。次の会話を見てください。

「んた、どこの人間?」
「わし、タンオの人間。」

 日本語のように見えると思いますが、これは宜蘭クレオールと呼ばれる台湾の言語を、仮名と漢字で表記したものです。宜蘭クレオールは日本語とアタヤル語が混ざり合うことによって成立した言語で、一般に日本語とは別の言語であるとされます。このような例を見ると、日本語と日本語ではないものの境界というのがそれほど明確ではないことが窺えます。

 境界が必ずしも明確ではないということは、ある言語の内部、つまり方言を見てみても同じです。例えば「名古屋市方言には母音が8つある」「与那国方言には母音が3つある」などと語ることがありますが、これらの方言を話すとされる人たちがどのように母音を区別しているかも、実際には一様ではありません。他の方言と混ざるなどの要因によって、8つの母音を区別しない「名古屋市方言」の話者もいるわけです。名古屋市方言とそうでない方言の境界もやはり、必ずしも明確ではないということです。実際にははっきりとした境界のないところに線を引き、明確な輪郭をもつ何かとして言語や方言を捉えるとき、私たちは言語を物体のような何かに見立てているのです。

 以上のように、私たちは言語を物体に見立てます。別の言い方をすれば、言語を物体になぞらえるという比喩を用いることで言語について思考し、語ることをしているということです。なぜこのようなことをするかといえば、言語を物体のようなものとして扱うことによって、言語という捉えがたい対象について思考し、語ることが容易になるからです。実際、このような比喩を全く用いることなく言語について考えることは非常に困難です(現に、上の文章でもこの比喩を用いて言語や方言について語っています)。

 しかし、言語が物体であるというのはあくまで便宜的な比喩であり、フィクションです。では、言語は実際にはどのようなものなのでしょうか。現に起こっていることは、人々が話すという活動なのだから、言語は人間による活動だと言えるでしょう。そして、この活動のあり方は人によって異なります。どのように話すか、どのように話すことができるかは人によってまちまちだということです。例えば、同じ状況であっても、「やばいこれめっちゃいい匂い」と言う人もいれば、「とても良い香りですね」と言う人もいるし、中には「馥郁とした香りがしますね」と言う人もいるかもしれません。ある言葉を知っている人もいれば、知らない人もいます。同じ言葉であっても、人によって違う意味で用いることもあります。どの話者も、それぞれ違った形で話すという活動をしているのです。しかし、皆が全く違う活動をしているわけでもありません。もしそれぞれが全く違う仕方で話していたら、コミュニケーションが成立しないからです。コミュニケーションが成り立つためには、少なくともある程度までは似たような仕方で話す必要があるため、やり取りを行う人達の間では、話すという活動のあり方が一定の類似性を保つように調整されるのです。密なコミュニケーションをとる人たちはよく似た話し方をするようになり、あまり関わりのない人たちはそれほど似ていない話し方になっていくわけです。そして多くの場合、密なコミュニケーションをとる人たちは、地理的に近い場所にいます。

人々の話すという活動を全体として見渡すと、ある部分は緊密な共通性で結びついていて、ある部分は緩やかな共通性でのみ結びついている。そして、よく似た話し方をする人たちは、地理的にある程度まとまった場所にいる。これが、私たちが言語と呼ぶものの、より実態に近い姿と言えるでしょう。この緊密な共通性で結びついた話し方、地理的に近い場所にいる人たちによる話し方に注目し、それを空間的な位置と明確な輪郭を持った「ひとつの言語」「ひとつの方言」として取り出すとき、私たちは言語や方言を物体という比喩を通して理解しようとしているのです。

━【「音楽から見る数学4」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━

2023年3月11日 更新

━【「音楽から見る数学4」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━
★このコラムでは、数学と音楽の両方に魅せられてきた筆者が、数学と音楽の共通点を考える中で見えてくる数学の魅力について、筆者なりの言葉でお伝えしていきます★

― 十二音技法 ―

こんにちは。元K会数学科講師の布施音人です。
今回は、西洋クラシック音楽の世界で20世紀に誕生した、十二音技法と呼ばれる作曲技法についての話をしたいと思います。

私たちが普段接する音楽は、1オクターヴを12等分してできる12種類の音から作られています。すなわち、「ド、ド♯=レ♭、レ、レ♯=ミ♭、ミ、ファ、ファ♯=ソ♭、ソ、ソ♯=ラ♭、ラ、ラ♯=シ♭、シ」の12種類の音の組合せで、様々なメロディや和音が作られています。では、これら12種類からの音の選び方について、何かルールや方向性のようなものはあるのでしょうか。

一つの大きな方向性として、調や調性と呼ばれるものがあります。音楽の授業で、「ハ長調」「ニ短調」などの言葉を習ったかも知れませんが、12個からどのように音を選ぶかという観点から述べると、長調や短調とは、12個のうち特定の7つのみを使ってメロディや和音を作りましょう、といった一種の約束事といえます。その7つとは、いわゆる「ドレミファソラシ(ド)」とそれを平行移動してできるものです。

この「ドレミファソラシ(ド)」が12音からどのように選べば得られるのかを考えてみましょう。先ほど列挙した12音「ド、ド♯=レ♭、レ、レ♯=ミ♭、ミ、ファ、ファ♯=ソ♭、ソ、ソ♯=ラ♭、ラ、ラ♯=シ♭、シ、(ド)」と見比べてみると「ドレミファソラシ(ド)」は12音を順番に「1個飛ばし・1個飛ばし・隣・1個飛ばし・1個飛ばし・1個飛ばし・隣」(これをAとおきましょう)というふうに辿っていくことで得られることが分かります。

ここで、この列にはさらに細かい周期は存在しません。そのため、Aで得られる7音があれば、どれが「ド」にあたり、どれが「レ」にあたるかが特定されます。よって、始まる音をどこに置くかの12通りに対応して、Aで得られる音の集合も相異なる12種類が得られます。この性質のおかげで、ある調から他の調に変化した場合(転調といいます)、そのことが明らかになります。西洋クラシック音楽ではバッハらの時代から現代に至るまでの長い期間、この転調の奥深さを求め続けてきたといえるかもしれません。

ところが、20世紀初頭、こういった調の制約から解放されようとする実験的な試みが各所で起こりました。その中の一つが十二音技法です。

アルノルト・シェーンベルクというドイツの作曲家が1910年代に創始したとされる場合が多いですが、状況は複合的であったようです。歴史的経緯はともかく、十二音技法では、12個の音をなるべく均等に用いてメロディを構築します。具体的には、12音を並べ替えてできる音列を1つ用意し、その通りの順番で音を用いて楽曲を構成するのです。厳格にこれを行うことで、音の出現回数の偏りや、元の12音の列以外の周期での繰り返しがなくなり、結果的に調性感が失われるとされています。実際は、私たちの耳は調性的に聴き取るように訓練されすぎているのか、十二音技法で作曲された楽曲を調性的に聴く、といったことが当初よりしばしば起こったようで、「無調」の試みが満足のいく成果が得られたかどうかは分かりません。ただ、作曲技法としての興味深さは今も色あせることはありません。

ところで、12という数字はとても約数の多い数字です。そのため、12音の周期の中により細かい周期が見えるような列が考えられます。たとえば、「ド、ド♯=レ♭、レ、レ♯=ミ♭、ミ、ファ、ファ♯=ソ♭、ソ、ソ♯=ラ♭、ラ、ラ♯=シ♭、シ」を1から12までの数字に置き換えたとき、1(ド),2(ド♯=レ♭),6(ファ、),4,(レ♯=ミ♭)5(ミ),9(ソ♯=ラ♭),7(ファ♯=ソ),8(ラ),12(シ),9(ソ♯=ラ♭),10(ソ),3(レ)という列は、同じ形の3つが平行移動されながら4回繰り返されているとみなすことができます。12音を正十二角形の頂点に配置し線で結べばこの対称性をより感じられるでしょう。このように、12の約数の多さも手伝って、十二音列には様々な分類や組合せ論的な問題設定が可能です。

十二音技法を用いた作曲家たちは、こういった組合せ論的な楽しみを持って作っていた場合も多いのではないかと想像します。12音の列は12!=479001600通りありますから、世の中には未だ一度も登場していない十二音列がまだまだ無数にあるでしょう。みなさんも自分だけの十二音列を作り、可能なら実際に鳴らして、その響きを味わってみてはいかがでしょうか。

━【「言語学をのぞいてみよう その32」(K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━

2023年1月14日 更新

━【「言語学をのぞいてみよう その32」(K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━
★このコラムでは、東京大学大学院にて言語学を研究している筆者(K会の英語科講師)が、英語・言語学・外国語学習・比較文化などの話題をお伝えしていきます。★


なぜ「哺乳動物を飼っています」と自己紹介しないのか? ––– 包摂関係の話

初対面の人と話をしているときに、自己紹介としてあなたは次のように言おうとします。

(1) 私はコッカプーを飼っています。

しかしあなたは思い留まります。なぜなら、コッカプーは一般にあまり知名度が高くないので、このように言っても相手には伝わらないのではないかという疑いがあったからです。そこで、次のように言うことにしました。

(2) 私は犬を飼っています。

(1)の代わりに(2)のように自己紹介することに問題はありません。なぜなら、コッカプーは犬の一種だからです。コッカプーを飼っているなら、必然的に、犬を飼っていることになります。考えてみれば、この自己紹介は次のように言っても(妙な自己紹介ではあるかもしれませんが)事実であることに変わりはありません。

(3) 私は哺乳動物を飼っています。
(4) 私は脊椎動物を飼っています。
(5) 私は動物を飼っています。
(6) 私は生物を飼っています。

犬は哺乳動物の一種であり、哺乳動物は脊椎動物の一種であり、脊椎動物は動物の一種であり、動物は生物の一種です。それゆえ、コッカプーを飼っているなら、以上の文はどれも正しい自己紹介になります。
コッカプーと犬の間には、「コッカプーは犬の一種である」という関係があります。このように、「XはYの一種である」という関係は、包摂関係と呼ばれます。以上の例から明らかなように、コッカプー、犬、哺乳動物、脊椎動物、動物、生物の間には、包摂関係が連鎖的に成立しています。この包摂関係の階層を、次のように表すことにしましょう。

(7) コッカプー < 犬 < 哺乳動物 < 脊椎動物 < 動物 < 生物

包摂関係の階層は、至るところに見出すことができます。

(8) トヨタクラウン < セダン < 車 < 乗り物
(9) ピッコロトランペット < トランペット < 金管楽器 < 管楽器 < 楽器
(10) フラットヘッドスキャナー < スキャナー < 家電 < 電気器具 < 器具

包摂関係の階層のうちのある表現を用いることができるときには、必ずそれよりも上位の層の表現を用いることもできます。例えば、万年筆と言えるものは必ず、ペンとも、筆記用具とも、文房具とも、道具とも言えます。しかし、複数の表現が可能だからといって、どの表現でも変わりがないということではありません。「私は脊椎動物を飼っています」と自己紹介をすることは、相当に奇妙です。おそらく自己紹介として最も無難なのは、(2)の表現、つまり「私は犬を飼っています」という言い方でしょう。「コッカプー」では伝わらないかもしれないし、「脊椎動物」や「生物」では大雑把すぎます。つまり、当の包摂関係の階層の中で、「犬」が細かすぎず、大雑把すぎない、ちょうどよい層であると言えそうです。

ここで考えてみてもらいたいのは、なぜ「犬」という層がちょうどよいのか?という問いです。これは、単にたまたまこの場合にはちょうどよいというだけなのでしょうか。それとも、「犬」という層には、この層をちょうどよい層たらしめる特別な性質があるのでしょうか。この問いに答えるために、「犬」という言葉を使うことと、その上下の層にある言葉、例えば「コッカプー」と「哺乳動物」という言葉を使うことの間にある違いを検討してみましょう。

まずは下の層を見てみましょう。「コッカプー」という言葉を正しく使うためには、「犬」であるものの中から、「コッカプー」を区別できていなければなりません。つまり、「コッカプー」と「ビーグル」「ボーダーコリー」「プードル」などを区別する必要があります。しかし、これらは姿かたちも生態も、よく似ています。犬の種類に関心があり知識と経験があるのでなければ、これらの言葉を区別して正しく用いることはできません。これと比べると、「犬」という言葉を正しく使うことはどうでしょうか。「犬」という言葉を正しく使うためには、「哺乳動物」であるものの中から、「犬」を区別できなければなりません。つまり、「犬」と「キリン」「クジラ」「コウモリ」「ネズミ」「カンガルー」などを区別する必要があります。これらは姿かたちも生態も大きく異るため、これらを区別することは難しくありません。この点で、「犬」という言葉を使うことは、「コッカプー」や「ビーグル」という言葉を使うことよりも難易度が低いのです。「犬」という言葉は、同じ層にある「キリン」や「クジラ」などと大きく異るからこそ使いやすいのです。一般化すると、言葉の使いやすさに貢献する要因として、「同じ層に属するほかの諸概念との類似性が低いこと」が挙げられる、ということになります。

次は、上の層を検討してみましょう。あるものの姿かたちや生態を少し観察して、それが哺乳動物であることを判断することは簡単ではありません。なぜなら、哺乳動物には「キリン」「クジラ」「コウモリ」「ネズミ」「カンガルー」など、姿かたちや生態の大きく異なる様々なものが含まれているからです。「哺乳動物」という言葉を正しく使うためには、ある程度の知識が必要になるでしょう。一方で、「犬」はどうでしょうか。あるものの姿かたちや生態を少し観察すれば、それが犬であることはすぐに分かります。なぜなら、上記のように犬はどれもよく似た姿かたちや生態を持っているからです。「犬」という言葉を正しく使うためには、それほどの知識は必要ありません。「犬」はどれも似ているから、言い換えれば、「犬」の下の層に属する「ビーグル」や「ボーダーコリー」などの共通性が高いから、「犬」という言葉は使いやすいのです。一般化すると、言葉の使いやすさに貢献する要因として、「下の層に属する諸概念の類似性が高いこと」が挙げられる、ということになります。

まとめると、包摂関係の階層の中で、「犬」という層がちょうどよい、つまり使いやすいのは、この層が①同じ層に属するほかの諸概念との類似性が低く、②下の層に属する諸概念の類似性が高いためだ、ということになります。一般に、包摂関係の階層の中には、この①と②の条件を満たす層があります。(8)の階層では「車」が、(9)の階層では「ホルン」が、(10)の階層では「スキャナー」がそれに当たることでしょう。もちろん、私たちはコミュニケーションの必要に応じて柔軟にこれ以外の層も使い分けます。しかし、理解しやすく伝えやすいためにコミュニケーションにおいて基本となる層は、あくまでこの層です。「コッカプーを飼っています」や「哺乳動物を飼っています」などといった自己紹介が避けられることには様々な要因が関わっていると考えられますが、そのうちの一つの要因となっているのが、これが包摂関係の基本の層から逸脱するコミュニケーションであるという事実なのです。

━【「音楽から見る数学3」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━

2022年12月8日 更新

━【「音楽から見る数学3」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━
★このコラムでは、数学と音楽の両方に魅せられてきた筆者が、数学と音楽の共通点を考える中で見えてくる数学の魅力について、筆者なりの言葉でお伝えしていきます★

― 音程と指数・対数 ―


こんにちは。元K会数学科講師の布施音人です。今回は、音の高さと音の周波数の関係についての話をしたいと思います。

私たちは日常的に音の高低というものを認識していますが、人間が知覚する音の高低は、音波の周波数の違いと対応しています。より正確には、音の高さの差(=音程)は、周波数の比に対応します。たとえば、1オクターヴという音程は「ドレミファソラシド」の、最初のドと最後のドとの間の音程ですが、周波数に言い換えると「周波数比が1:2」となります。つまり、周波数が220Hz(1秒間に220回振動する)の音の1オクターヴ上の音の周波数は440Hz、その更に1オクターヴ上の音の周波数は(660Hzではなく)880Hzです。オクターヴに限らず、人間の耳は、周波数の比が同じ場合に(差ではありません!)それらを同じ音程と感じることが知られています。

和や差が積や比に変換されるものといえば、指数関数ですね。音の高さに対してその周波数を与える関数は、何らかの指数関数で書けるといえます。逆に、周波数に対して音の高さを与えるのは、対数関数です。(ちなみに、心理的な感覚量は外的な刺激の強度の対数に比例する、という法則(ヴェーバー‐フェヒナーの法則)が知られており、音高と周波数の関係もその一種といえるかもしれません。)

では、音の高さと周波数とが指数・対数の関係で結ばれていることから何がいえるか考えてみましょう。私たちはオクターヴの関係にある2つの音を同じ名前で呼んでいます。実際、オクターヴの2音を同時に鳴らすと、とても調和して聞こえます。ではその次に調和して聞こえる音程は何かというと、周波数比が1:3や2:3の音程だといえます。古代ギリシャのピタゴラスを始め、多くの人間が、周波数比が簡単な整数比で表される音程ほど調和すると考えてきました。そして、そのような関係にある音たちを使って音律(音の高さの体系)を作りました。このような音律を純正律といいます。純正律は、周波数の側での等差数列をもとに作った音律といえます。純正律にも色々ありますが、たとえば「ドミソ」の3音は周波数比が4:5:6の関係にあるとすることが多いです。

一方、音の集まり(メロディーなど)に対して、それらの間の音程を保ったまま全体を高くしたり低くしたりということは身近なことです。これを移調といいますが、移調を可能にするには、音の高さの側でものさしを用意しておく必要があります。1オクターヴを出発点として、その間を音の高さのものさしでn等分して得られる音律を平均律といいます。つまり、平均律は音の高さの側での等差数列をもとに作った音律です。通常は1オクターヴを12等分した平均律が広く用いられています。現代において、ピアノを始め多くの楽器の調律は基本的に平均律です。そして、純正律と平均律はどこまで細かくしていっても一致しません。これは、累乗根やlogがしばしば無理数になることで説明がつきます。音の高さの側で1オクターヴを12等分した場合、隣り合う音の周波数比は1:12√2(2の12乗根)ですが、12√2は無理数なのでどんなに大きい整数をつかっても整数比で表せません。逆に、周波数比1:3の音程が音の高さのものさしでオクターヴの何倍なのかを考えると、それはlog_2(3)倍ですが、これも無理数なのでどんなに細かい平均律を使っても表せません。

では、純正律をよく近似する平均律は何かということを考えてみましょう。無理数を有理数で近似するやり方は色々ありますが、log_2(3)の連分数展開を途中で打ち切ることで有理数列を作ると、その途中には19/12という値が登場し、この近似はかなり近いです(log_2(3)=1.5849...、19/12=1.5833...)。このことからも、12平均律はよい近似であるといえます。(19/12より前では8/5という近似もあります。5音平均律もインドネシアなどで見られます。)

では、12音よりもっと細かい平均律を考えるとどうか、log_2(3)ではなくlog_2(5)などを出発点とした場合はどうかなど、この話題はいろいろと考える余地があります。興味を持った方は是非考えてみてください。

★特別セミナー「銀河の一生を探る」のお知らせ★

2022年11月4日 更新

★特別セミナー「銀河の一生を探る」のお知らせ★

日時:12月4日(日)14:00~16:00
場所:河合塾本郷校(K会)
料金:1000円
対象:中学生、高校生、保護者

多様な銀河の世界を研究する銀河天文学に残されている大きな謎が、銀河の一生、つまり銀河がどのように生まれ、どのように成長してきたのかということです。
一般に銀河の成長にかかる時間は人間の一生よりはるかに長く、一つの銀河が成長していく一部始終を人間が観測することはできません。
では、銀河の研究とはどのように行われているのでしょうか。

本セミナーでは、天文学者の考える銀河の一生の描像を、最新の研究結果を踏まえてお話しします。
「好きなことを学び、探究する」という学びのあり方を、同年代の先輩である田中さんの話を通して知ることができる貴重な機会です!ぜひご参加下さい!

◆本イベントのご案内は下記HPよりご確認いただけます。
https://www.kawai-juku.ac.jp/winter/kkai/winter-special/

◆講演者プロフィール
田中 匠(たなか たくみ)
栄光学園高等学校卒業
東京大学理学部天文学科在籍
国際地学オリンピック第12回タイ大会金メダリスト

◆お申し込み・お問合せ
K会事務局:03-3813-4581
受付時間:13:00~19:00
※日曜・月曜はお休み

★冬期講習申し込み受付中!!★
https://www.kawai-juku.ac.jp/winter/kkai/

━【「言語学をのぞいてみよう その31」(元K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━

2022年10月14日 更新

━【「言語学をのぞいてみよう その31」(元K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━
★このコラムでは、東京大学大学院にて言語学を研究している筆者(K会の元英語科講師)が、英語・言語学・外国語学習・比較文化などの話題をお伝えしていきます。★


二種類の因果関係:文法に見られる類像

前回、三種類の記号を紹介しました。おさらいをしておきましょう。まず、あるものを知覚することで、ある内容が伝わるということが起こるとき、知覚するものを形式、それによって伝わる内容を意味と呼びます。そして、形式と意味が結びついたまとまりを、記号と呼びます。記号は、形式と意味の結びつき方に応じて、三種に分類できます。形式と意味が自然の因果関係によって結びついた記号である指標、形式と意味が社会慣習によって結びついた記号である象徴、そして形式と意味が類似性によって結びついた記号である類像です。それぞれの例をもう一度見てみましょう。

(1) 指標: 家の外に出てみると、地面が濡れているのを見た。雨が降ったんだな、と思った。
(2) 象徴: エレベーターに乗ったら、ブザーが鳴ったのが聞こえた。重量オーバーだな、と思った。
(3) 類像: あるものが描かれた絵を見た。キリンだ、と思った。

 そして、言語にも、指標、象徴、類像という三つの側面があることを確認しました。今回はこのうち、言語に見られる類像的な側面についてさらに検討してみましょう。まずは、次の文を見てください。

(4) 太郎が次郎を舞台に上げた。
(5) 太郎が次郎を舞台に上がらせた。

 二つの文が表している状況には、共通点があります。どちらも、「太郎の振る舞いによって、次郎が舞台に上がるという出来事が起きた」という内容を表している点です。太郎の振る舞いが原因で、次郎が舞台に上がるという結果が生じた、という内容と言っても構いません。一般に、原因と結果の関係を因果関係と呼びます。これら二つの文は、因果関係を表すという点で共通していると言えます。
 しかし、二つの文が表す内容には相違点もあります。次の状況を考えてみましょう。

状況(a) 太郎が、気を失って倒れてしまった次郎を抱えあげて、舞台の上に寝かせた。

 この状況の説明として、(4)「太郎が次郎を舞台に上げた」と表現することはごく自然と言えるでしょう。一方で、(5)「太郎が次郎を舞台に上がらせた」と表現するとどうでしょうか。なぜわざわざそんな言い方をするのだろうと違和感を覚えるのではないでしょうか。上の状況の描写として、(5)の文は不適切であるように思われます。では、(5)の文が適切に使える状況とはどのような状況でしょうか。
 ここで、次の状況(b)を想像してみてください。

状況(b) 太郎が次郎に対して舞台上に移動するようお願いし、次郎はそれに応えて舞台の上に移動した。

 この状況の描写としてであれば、(5)「太郎が次郎を舞台に上がらせた」はごく自然な表現です。

 この違いは、何を意味しているのでしょうか。二つの状況を比較してみましょう。まず状況(a)において、次郎が舞台に上がるという出来事が起こった原因は何かと聞かれれば、これは間違いなく太郎の振る舞いだということになるでしょう。すなわち、次郎が舞台に上がるという結果をもたらした原因は、次郎を抱えて舞台に寝かせるという太郎の行為に他なりません。つまりこの状況には、原因と結果が一対一に対応する、単純明快な因果関係を見て取ることができます。
 それに対して、状況(b)はそれほど単純ではありません。確かにこの状況においても、太郎の振る舞いは原因になっているとは言えます。次郎が舞台に上がったのは、太郎がそのようにお願いしたからです。しかし、状況(a)とは異なり、原因は太郎の振る舞いだけではありません。次郎が太郎のお願いを聞き、それに応じたこともまた、原因と言えます。つまり、状況(b)において次郎が舞台に上がったのは、少なくとも、太郎がそのようにお願いしたからであり、かつ、次郎がそれに対して協力的に応じたからです。このように、次郎が舞台に上がるという結果をもたらした原因は、唯一これに他ならないという形で容易に取り出せるような単純なものではありません。つまりこの状況には、複数の原因と結果が対応する、複雑な因果関係を見て取ることができるのです。
 まとめると、状況(a)のように単純な因果関係を見出すことができるような状況を描写する際には、(4)「太郎が次郎を舞台に上げた」のような表現が適切であり、一方で、状況(b)のように複雑な因果関係が見出される状況を描写する際には(5)「太郎が次郎を舞台に上がらせた」のような表現が適切になるということです。さて、ここで、二つの文の形式に注目してみましょう。(4)の文の述語は「上げた」という表現です。この表現は、「上げる」という動詞の語幹に過去を表す「た」が付加されたものと分析することができます。これを少し単純化して次に示します。

(6) 「上げた」…「上げる」+「た」

一方で、(5)の文の述語は「上がらせた」という表現です。この表現は、「上がる」という動詞の語幹に、使役を表す「させ」と、過去を表す「た」が付加されたものと分析できます。こちらも単純化して次に示します。

(7)「上がらせた」…「上がる」+「させ」+「た」

つまり、「上げた」よりも、「上がらせた」の方が、多くの要素が組み合わさった複雑な形式だということです。もうお気づきでしょうか。単純な因果関係という意味を表す際にはより単純な形式が、複雑な因果関係という意味を表す際にはより複雑な形式が用いられるのです。単純な意味を単純な形式で表し、複雑な意味を複雑な形式で表す。意味と形式に共通性があるということです。ここに、言語の類像としての側面を見て取ることができます。

 この例だけであれば、偶然として片付けることもできるかもしれませんが、これと同様の現象は様々な表現の中に見出すことができます。例えば、次のような表現のペアでも、表現の複雑さと因果関係の複雑さが対応しています。

(8) 「下げる」vs.「下がらせる」
   「止める」vs.「止まらせる」
「どかす」vs.「どかせる」
「殺す」vs.「死なせる」

さらに、こうした現象は日本語の中だけでなく、世界中の言語で観察されます。例えば、次の英語の例を見てみましょう。

(9) John put Bill on the stage.
(10) John had Bill stand on the stage.

状況(a)のような単純な因果関係は(9)のようなより単純な文で表現され、状況(b)のような複雑な因果関係を表現する際には(10)のような複雑な文が適切になります。このように、英語でも日本語と対応する現象が見られます。ついでに、筆者が勉強しているチェコ語の例も挙げておきます。これに関しても、日本語や英語と同じことが言えます。

(11) Jan postavil Petra na pódium.「ヤンがペトルを舞台に上げた」
(12) Jan nechal Petra postavit se na pódium.「ヤンがペトルを舞台に上がらせた」

このように、状況の中に見出される因果関係を単純なものと複雑なものに分け、それぞれを単純な形式と複雑な形式によって表現し分けるという現象は、人間の言語に幅広く見られる一般的な現象なのです。

以上で確認できたことは、複数の要素を組み上げて文を作るという現象、すなわち文法にも、類像性が見られるということです。言語の類像としての側面は、前回見たオノマトペなどに限られるものではなく、文法という言語の根幹とも言える特徴に及ぶものであると言えるのです。

冬期講習まもなく受付開始

2022年10月11日 更新

みなさんこんにちは。K会事務局です!

10/18(火)13:00よりK会の冬期講習の受付が開始となります!
設置講座は数学・英語・情報科学・物理・化学・地理・天文学・言語学の全16講座!
2022年冬期講習のラインナップは10月18日(火)より下記URLよりご確認いただけます。
https://www.kawai-juku.ac.jp/winter/kkai/curriculum/

この冬は天文学の講座『太陽系内・外の惑星とその特徴』が初開講!
生徒のみなさんの「宇宙について知りたい」「惑星に興味がある」というお声を受けて生まれた講座です。
学年、予備知識の有無は問いません。興味のある方であればどなたでも歓迎いたします。

さらに、今回は夏期講習に引き続き「Pythonではじめるプログラミング入門」を開講。
夏期講習では早々に締め切りとなってしまたので、受講できなかったというみなさんはぜひこの機会にご受講下さい。
もちろん、初めてプログラミングを学びたいというみなさんのご受講もお待ちしております。

そのほか「フーリエ級数論」や「現代の熱力学」など知的好奇心をくすぐる面白いテーマの講座をたくさんご用意しました。
短い冬休みですが、ぜひK会で充実した学びの時間を過ごしましょう!
みなさんにお会いできることを楽しみにしております。


■お申込み・お問合せ
K会事務局 
03-3813-4581
受付時間:13:00~19:00(日・月および12月29日~1月3日はお休み)

━【「音楽から見る数学2」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━

2022年9月10日 更新

━【「音楽から見る数学1」(元K会生・元K会数学科講師:布施音人) 】━
★このコラムでは、数学と音楽の両方に魅せられてきた筆者が、数学と音楽の共通点を考える中で見えてくる数学の魅力について、筆者なりの言葉でお伝えしていきます★

― 広大な音の海・命題の海から文脈を生み出す営み ―


こんにちは。元K会数学科講師の布施音人です。
今回は、人間が数学や音楽の成果物を生み出す営みに着目しつつ、数学と音楽の共通点について少し考えてみたいと思います。

音楽の成果物とはなんでしょうか。
音楽の成果物の一番原初的な形は、演奏された「音楽」そのものといえるでしょう。ただ、音楽そのものとはなんだろうと少し考えてみると、実態はただの物理現象であって、その時その場所に発生している音の波の中で、その一部を音楽として認識するのは、受け取る側の問題だということができます(聴き手だけでなく演奏者の側からしてもそうです)。どこからどこまでがひとつの「音楽」として認識されるかの境界線はかなり曖昧ですが、一方で多くの人間が「音楽」「楽曲」というものを認識できているように思えるのは、何とも不思議なことです。

数学の成果物とはなんでしょうか。
数学の成果物としては、一つの命題、定理、大きくは一つの理論などがあるでしょうが、その一番原初的な形は、(証明問題を解くときに解答用紙の上で繰り広げるような)推論の集まりだといえると思います。数学的に正しい推論は、自明なものから非自明なものまで、それこそ無数に存在しますが、そのごく一部を抜き出してひとまとまりの定理や理論として認識するのは、音楽の場合と同じように、受け取る側の問題といえるかも知れません。

このように考えると、音楽家や数学者の役割の一つは、広大な海(音の海、命題の海)から、なんらかの文脈を生み出すこと、もう少し細かく言えば、文脈を共有する契機を与えることだといえるかもしれません。また、成果物を記録しておく手段として、音楽の場合は録音物や楽譜などがあり、数学の場合は論文や本などがありますが、これらは広大な海から見出された文脈を仮の形で書き留めたものといえるでしょう。このように敢えて人間的な部分に注目すると、数学の本などがまた違った意味で親しみをもって感じられるのではないでしょうか。また、同じ理論についての数学書でも著者によってアプローチが異なることがよくありますが、同じ楽曲を異なる演奏者が演奏することに類比すると新たな見え方があるかもしれません。

最後に、よく言われる次のような問いを提示します。それは、数学的概念は発見するものなのか発明するものなのかという問いです。ここで考えたことを踏まえた単純な一つの答えとして、個々の推論は発見するものだがそこに与える文脈は発明するものだということが言えます。しかし、文脈は本当に発明なのかといわれると、そこも怪しいかもしれません。というのも、音楽でも数学でも、しばしば新たな成果は神憑り的な状況から得られるからです。数学者のラマヌジャンは明確にそのようなことを言ったことで有名ですね。

数学の学習では、属人的な要素を排して推論を正確に追っていくことが求められますが、たまには息抜きに人間が数学をするという営み自体について考えてみると、新たな刺激があるかもしれません。

━【「言語学をのぞいてみよう その30」(元K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━

2022年7月15日 更新

━【「言語学をのぞいてみよう その30」(元K会英語科講師:浅岡健志朗) 】━
★このコラムでは、東京大学大学院にて言語学を研究している筆者(K会の元英語科講師)が、英語・言語学・外国語学習・比較文化などの話題をお伝えしていきます。★


意味はどのように伝わるか:因果関係・社会慣習・類似性

1. 意味が伝わるとは?
 人間は、言語を使って意味を伝えあっています。しかし、意味が伝わるとはどういうことでしょうか。これを考えるために、意味が伝わるという現象がどのようにして起こるか、ということを考えてみましょう。これを考えるヒントになるのが、記号という概念です。
 まずは、次の状況を見てください。

状況 (1) 家の外に出てみると、地面が濡れているのを見た。雨が降ったんだな、と思った。
状況 (2) エレベーターに乗ったら、ブザーが鳴ったのが聞こえた。重量オーバーだな、と思った。
状況 (3) あるものが描かれた絵を見た。キリンだ、と思った。

 いずれの状況でも、何かをきっかけにして何らかの内容が伝わるという現象が起こっている、と見ることができます。例えば状況 (1) では、「濡れた地面」を見ることをきっかけに、「雨が降った」という内容が伝わってしますし、状況 (2) では、「ブザーの音」を聞くことをきっかけに、「重量オーバーだ」という内容が伝わっています。状況 (3) では、「あるものが描かれた絵」を見ることをきっかけに、「キリン」という内容が伝わっています。
 このように、あるものを知覚することで、ある内容が伝わるということが起こるとき、知覚するものを形式(form)、それによって伝わる内容を意味(meaning)と呼びます。そして、形式と意味が結びついたまとまりを、記号(sign)と呼びます。例えば状況 (1) は、「濡れた地面」という形式と「雨が降った」という意味が結びついた記号であると見ることができるし、状況 (2) は、「ブザーの音」という形式と「重量オーバーだ」という意味が結びついた記号であると見ることができます。状況 (3)は、「絵」という形式と「キリン」という意味が結びついた記号です。
 形式と意味からなる記号というこの考え方を用いると、「意味が伝わるとはどういうことか?」という問いは、「形式によって意味が伝わる記号という現象は、どのような現象なのか?」という問いに置き換えることができます。これを考えるために、以下では、どのような種類の記号があるか、ということを検討してみましょう。


2. 因果関係によって伝わる:指標という記号
 まず、状況 (1) において、「濡れた地面」という形式によって「雨が降った」という意味が伝わるのはなぜでしょうか。これは明らかに、私たちが「雨が降ったら、地面が濡れる」という自然の因果関係を知っているからだと言えるでしょう。地面が濡れているのはなぜか?と考え、「雨が降った」からだろうと推測しているわけです。結果(地面が濡れている)から、原因(雨が降った)を逆算しているということです。
 これとは逆に、原因から結果を予測するということもあります。例えば、黒い雲がもくもくと湧いて来るのを見て、「雨が降りそうだ」と思う場合です。ここでは、「黒い雲が湧いたら雨が降ることが多い」という自然の因果関係に関する知識を利用して、原因(黒い雲が湧いた)から、結果(雨が降る)を予測しています。
 いずれにしても、これらは形式(濡れた地面/黒い雲)と意味(雨が降った/雨が降りそうだ)が自然の因果関係によって結びついた記号だと言えそうです。このような記号を、指標(index)と呼びます。


3. 社会慣習によって伝わる:象徴という記号
 一方で、状況 (2) はどうでしょうか。「ブザーの音」という形式と「重量オーバーだ」という意味は、自然の因果関係によって結びついているわけではありません。エレベーターが重量オーバーになったらブザーの音が鳴るということが、自然の法則によって決まっているわけではありませんから。この形式と意味を結びつけているのは、「重量オーバーの場合には、ブザーの音を出して知らせる」という取り決めに過ぎません。そして取り決めとは、ある人間の集団の中で形成されるものですから、集団が異なれば取り決めも異なり得ます。同じブザーの音を、別の社会では(重量オーバーでなく)エレベーターの故障を知らせるものとして使う取り決めがあっても不思議ではありません。つまり、これは、形式と意味が社会慣習によって結びついた記号だと言えます。このような記号は、象徴(symbol)と呼ばれます。日常的に「記号」と呼ばれるものは、たいていが象徴であると言って良さそうです。地図記号(♨)や音符(♪)、トイレの入り口のマーク、交通標識、ブランドのロゴ、コンビニの入店音、点字ブロックなどなど。私たちの周りは象徴で溢れています。
 そしてここで重要なのは、言語は基本的に象徴であるということです。例えば、私たちは neko という音を聞くと、あの動物のことだな、と考えます。neko という形式に、「猫」という意味が結びついているわけです。しかし、この形式と意味の結びつきは、日本語を話す集団による取り決めに過ぎません。その証拠に、集団が違えば、同じ動物のことを伝えるために、cat という音を使ったり、kočka という音を使ったりします。意図した意味を伝えるためには、その集団での取り決めを守る必要があるのです。


4. 類似性によって伝わる:類像という記号
 状況 (3) はどうでしょうか。あるものが描かれている絵を見て、「キリンだ」と思うという状況です。当然、絵とキリンという動物は別のものです。それでも絵を見てキリンという意味が伝わるのは、絵の見た目とキリンの見た目との間に、類似性があるからです。このように、形式と意味が類似性によって結びついている記号を、類像(icon)と呼びます。何かを模して作成された絵や彫刻は、典型的な類像だと言えるでしょう。
 先程、言語は基本的に形式と意味が社会慣習によって結びついた象徴であると述べました。しかし、言語にも類像としての側面が見られます。最も分かりやすいのが、オノマトペです。オノマトペとは、何らかの音を、それと似た言語音によって表す記号のことです。例えば日本語では、銃の発砲音などを、「バン」と表現します。これは、銃の発砲音という意味と、「バン」という形式が結びついた記号です。ここで「バン」という形式が用いられているのは、この言語音と銃の発砲音に類似性があるからだと言えそうです。ある音を、その言語の中の似た音を使って表すこのオノマトペは、世界中の言語で観察されます。言語にも、類像としての側面があるのです。
 言語に見られる類像は、オノマトペに留まりません。例えば、「長い映画」と、「長~~~~い映画」では、どちらの方が長く感じられるでしょうか。これは明らかに後者ですよね。後者の形式の方が長く引き伸ばされて発音されることと、後者の形式の方がより長い映画を表していると感じられることは、偶然ではありません。まさに、形式が「長い」ことによって、意味も「長く」なっているのです。つまりこれは、形式と意味の間に類似性が認められる類像だと見なせます。このような現象も、世界中の言語で広く観察されます。


5. 言語は、象徴であり、類像であり、指標である
 言語とは、形式と意味が社会慣習によって結びついた象徴でありつつ、形式と意味が類似性によって結びつく類像としての側面も持っている、ということになります。それでは、言語に指標としての側面はあるのでしょうか?つまり、言語には、自然の因果関係によって意味が伝わる、という側面もあると言えるのか、ということです。
 その候補と言えそうなものとして、例えば声色と感情の関係が挙げられます。同じ「そうじゃないよ」という発言でも、ゆっくりと、低く小さく、穏やかな声で言う場合と、速く、高く大きく、震える声で言う場合では、話し手がどのような感情なのかが全く違うと感じられることでしょう。つまり、伝わっている意味が異なるわけです。声色の変化は、ある程度は意図的にコントロールできるものではありますが、基本的には感情が高ぶることによって筋肉が収縮するという人間の生理的な仕組み、自然の因果関係によって生じるものです。声色という形式と感情という意味が結びついた記号というものを認めるなら、どの言語にも指標的な側面があると言えそうです。
 最初の問いに戻りましょう。言語によって意味が伝わるとは、どのような現象でしょうか。以上の考察から見えてきたことは、この現象が多面的なものであるということです。すなわち、私たちは、社会慣習に従いながら、類似性を利用しつつ、時として自然の因果関係も考慮に入れることで、形式から意味を読み取っているということです。意味が伝わるという現象は、少なくともここで挙げた要因が複雑に絡み合う、多面的な現象だと考えられます。

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